覚書

 

イヤホンをして音楽に埋もれても世界は無くならなくて私はやっぱり生きていて無理、辛い、と思った。ひとつひとつの刺激をまともに受け止めていたらとてもじゃないけど生きていけない。そして今の私は全ての刺激をまともに受け止めてしまっていて、自分から自分の生きにくい世界を形成している。久しぶりに動悸が来て、布団に丸まって、ああでもないこうでもないと考えながら次の逃げ場所は睡眠だなと思っている。とりあえず眠りに逃げることができれば、怖いことも悲しいことも一瞬は消えてくれるから、そうしたら私は世界にいないのと一緒のこと。

 

いろんなことが怖い。やっぱり断れば良かったとか、やっぱりやめとけば良かったとか、自分で蒔いた種をひたすら回収しようとしてみるけれど私にはもうこれ以上 拾えないし無理です。

 

そういえば小学生のとき、コスモスの種を蒔くイベントがあった気がする。コスモスは村の花なんだっけ、それで村の木は白樺なの。我ながらよく覚えているなと思う。

そうやってその村で生きてきて何とか脱出してここに来て、ここでもまた道に迷って、生きづらいことこの上ない。私はなぜかもう少し今の場所にとどまっていたいと思っているけれど、でもそれもなかなか意にそぐわないものがあるようで、んー、よくわからない。いろんなことが引っかかったりもやっとしたりしていて、なんて言えばいいのかわからないけれど、先を見ると怖くて怖くて怖くて仕方なくなる。足元さえ不確かなのに。

 

それでも私がこの場所で培ってきたものは多分揺るぎが無くて、何だかんだ悪くない気持ちでいるのに、どうしてそんなことになるのかな。わかりあえないのかな。疑問ばかりが大量に生まれて、私の思考はどんどんそれに侵食されていく。

言いたいこともなかなか言えなくて、違うのになあ、そうじゃないと思うんだけどなあと思いながら押し黙る。

ねえ、生きづらいねえ。でも生きづらい世界はある意味 自分で形成しているんだよ。私の世界も他の誰かの世界もそう、結局 自分自身が形成したものなんだよ。だから自分が幸せになれる、自分が優しい自分らしくいられる環境を作り出せるのはいつも自分自身で、そうすれば生きやすくなるはずなんだよ。

わかるかなあ。わかってくれるかなあ。わからないだろうなあ。